クルッククルッククルックッククルックルー

落ちこぼれな院生にも,等しく修了予定年限というのはやってくるんです。

いや,昨日ね,大学図書館のHPから,これすぐ必要やで!と思う論文を複写依頼しようと思ったわけ。そしたらね,なんでか分からないけど,全然ログインできないのね?おかしいなぁおかしいなぁ,パスワード間違ってないよなぁ,おかしいなぁおかしいなぁって,何度も何度も同じパスワードを入力しては弾かれるという,単細胞ぶりを発揮していたのよ。アホだよね。こういう時の人間って。

まぁそれは良いんだけど,パスワード変更のページがあるから,一縷の望みを抱いて,そこにアクセスしたわけよ。そいでね,旧パスワードだと自分が思っているやつと,新パスワードを入力したのね?まぁ新パスワードのルールが全然分かってなくて,「8文字以内にしろ」とか「数字も入れろ」とか,散々面倒をかけたりもしたんだけど,まぁそれは良いよね。で,パスワードの変更,とりあえず入力はうまくやりました。そしたらさ,図書館HP様から,なんて言われたと思う?


「このアカウントは使用期限が切れています。修了予定年限が近づいている方も,これに該当します」


だっておwww


マジでな,この世の中ってオーバードクターに厳しすぎねぇ?奨学金は止まるわ,民間奨学金はねぇわ,ワシャどないして来年度の夫としての体面を保てば良いのよ!全く!失☆礼☆し☆ちゃ☆う!もちろんね,借金で体面を保っているくらいだから,全然大した体面ではないわけよ。それは自ずから明らか。Evidence-Based-甲斐性なし。でもね,それでも良いのよ,現金さえ手元にあれば!おお,勘の良い方ならお分かりかと思う。俺はNo Futureというアティチュードの熱心な信奉者なんだ!まぁこれはもちろん口から出任せだけど,勘の良い方なら,そんなことお見通しだったよな!!


で!これは不便すぎるので,とにかく早急に図書館まで怒りのメールを送ってみたのさ。DQNだって?うっせ,こっちは本気なんだよ!生きていくのに,必死なんだよ!ド畜生!!まぁ実際は平身低頭お願いするメールを送ったんだけどね。YEEEAAAHHH!!!! I Always sing "Qoo-Look-WOOOOOOO"!!!!!


まぁね,そんな来年度からオーバードクター丸出しな俺様にも,やらなきゃいけない時はある。ケジメ,つけないとイケないときはある。ってーわけで,今日から実験開始したぜ!取りたいデータが山のようにあるぜ!でも時間はほとんど残ってないぜ!なぜかって?HAHAHAHAHAHAHAHAHAHAAAAAAA!!!んなもん,俺様が落ちこぼれだからに決まってんだろうが!寝言は寝て言えっつーの!ふざけんな俺!マジで糞だな!


おいみんな,これからすげぇ大事なこと言う。よく聞いて,その胸に刻みつけることをオススメするぜ。


光陰矢のごとし


おお,これを初めて言った奴,200%天才。
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修行は厳しい

「へそから癒しのオーラが出る様子をイメージする,という修行を行えば,貴様のポニョ腹からマイナスイオンが出てくるかもしれない」と友人に言われたので,実際にそれをイメージしようと試みたが,癒しのオーラと言うよりも,むしろ出てくるものは内臓脂肪という感じだった。それを伝えると,早急に通院することを勧められた。何科に行けば良いのか。somatic delusionのようでもあるので,精神科か?ならば検査を頼むと伝えてみたが,返事はなかった。

確かに,へそから内臓脂肪が出てくるというのはなんとも気持ちが悪いことなのだけれども,一方でねばねばドロドロな内臓脂肪がへそから出て行くとスッキリしそうな気がするし,その意味では気持ちいいことだとも言えるかもしれない。

ただ,それが気持ちよかろうが悪かろうが,通院が必要であることに違いは無いだろう。






最近は,ツイッターで体性感覚的なことをつぶやこうとしています。体性感覚な論文を読んで記録しようと思っていましたが,めっきり雑つぶやきばかりです。そして例に漏れず,その影響でブログの更新が止まりました。

暴君じみた振る舞い

「珍しく」,大学の人々と食事に出かける。焼き肉うまし。

その場で少々かわいらしい振る舞いをしてみたのだが,それについて曰く,「普段暴君みたいな感じなのに」とのこと。そうか。俺は暴君だったのか。

ちなみに,なかなかのイケメンである某一年生を捕まえて,「お前は自分のことをどのように認識しているのか。イケメン度合いはどの程度だと考えているのか述べよ」と迫り,律儀にもそれに「不細工ではない。でも自分的にはタイプではないかも」と回答した素晴らしき一年生に対して,「ならば,私はイケメンですが,このイケメン顔は私のタイプではありません,と言え。早く言え。良いから言え」と迫る始末。

こういう振る舞いをして,暴君と呼ばれるらしい。

それは改めるべきなのかどうか迷い,後輩にアドバイスを求める。「これから先,俺はどのように生きていけば良いのか」と。「とりあえず試しにやめてみれば?」と言われたので,そうしてみようと思ったのだが,困ったことに「黙り込む」以外に方法が思いつかない。それを見たまた別の男が,「それじゃあ機嫌悪いだけじゃん」と言う。なんだと?じゃあ俺は不機嫌な時以外ずっとしゃべり続けているということなのか?なんという騒音公害。

大学に戻ってきてから,改めてアドバイスを求めようと思い,「どうやねん,どうやねん。おい。言えや」と迫ると,これはもう大変に順当だと思うのだが,「それが暴君なのだ」と釘を刺される。そいつ曰く,暴君でないときの凸と暴君としての凸だと,暴君でない凸の方が良いのだという。うむ。そうなのか。じゃあ改めてみようかと思い,振り返ったところに同期が居たので,「うぇい~」と言いながら肩を押すというふざけた行動をとってしまった。そしてもちろん,「それが暴君なのだ」と釘を刺された。改めようと,心を入れ替えようと,これからは一小市民として地道に生きていこうと決意した,その2秒後の出来事である。


我ながら,そのマヌケぶりには閉口するほかなかった。

カッとしたワケでもないので,反省はしていない

今日は妻が友人と食事に出かけたため,無目的ながらお務め後に大学に来てしまった。

その目的の無さたるや,自分でも驚くほどのものであり,妻も居ない自宅では暇を持て余してしまうという己の無能ぶりを証明しているようで,なんとも居心地が悪いような,そうでもないような,とにかく無意味さを吸い餅のようにズルズルズッズッと飲み込みまくっているような感覚と共に,已むに已まれず,こうして全くもって意味をなしていない駄文をしたためるに至ったワケなのである。

つい先ほどまで,久しぶりに某先輩と中身のない長電話をしてみたりして,このBuilding Dに意志があって,思考をし,なおかつ言葉を発する事ができたならば,もう言われる事は一つしかなく,「お前用無いならはよ帰れや」という無慈悲で的確でドッチラケ感全開の一言であったろうことは,この無能な俺様にも容易に想像できる事であり,そのことをこうして「いやまぁ,それは俺にも分かってるんだけどさ」といった具合にダラダラと書き連ねる自分を殺したくなる程である。いや,ほんとは殺さないんだけどね☆

いやそれにしても,最近はメッキリ朝夕涼しくなって参りまして,今年から再びトライしてみた半ズボンともお別れするハメになってしまいましたので,仕方なくこうしてジーンズを履いているわけなのですが,足下は依然スリッパのままですし,「なんか足冷たいなー。やっぱこの季節は冷えるなー」などと,一体全体どの口が言っておるのかと,我ながらその厚顔無恥ぶりに赤面,いやさ赤面している自意識過剰な自分を殺したくなるほどなのであります。いや,ほんとは殺さないんですけどね☆

なんといいますか,近頃では大変に真面目なエントリばかりを書いてございましたので,直近の数エントリなどを読み返しましても,そのくそ真面目さ,自己酔っぱらい加減に,ほとほと嫌気がさしてきているというのが実情でございまして,書けもしない高尚な文章を書こうとするからそんな恥を晒すのだと,激しく己を叱責しておる次第にございますのが,既にアラサーに突入しようかという,いやむしろ既に突入しておるではないかという,この無能な人物,つまり私ですが,この無能な人物について私が言える全ての事なのでございます。

やはり時にはハメを外し,無意味な文章をしたためることで,無意味な時間を過ごしていたいというのは,私が心の底から望んでいることでもございますので,今こうしてパーソナル・コンピューターのキーボードをブラインド・タッチとは恐れ多い程度の下手くそタッチでタイピングすることこそ(仮にそれが過剰にノイジーなタッチ音をまき散らしていたとしても),大変な喜びなのではあるのですが,なぜ今日までくそ真面目で面白みに欠ける事ばかり書いてきたかと申しますと,正直もう自分にはアホらしい文章を書く事など全く不可能であり,その意味で言うと私は全くの不能者なのではないかという思いに苛まれていたからに他ならないのでございます。


さて,そろそろこの無意味な時間も終わりです。これから私は洗い物と風呂洗いをし忘れた,既に妻の帰ってきている自宅に,戻らねばなりません。願わくば,その責め苦によって自らの命を絶つといったような,あまりにもアホらしい最期を迎えるハメにはなりたくないなぁと,ボンヤリと思っているのでございます。つまり,キルマイセルフですので,自分を殺すということなのでございますが,いや,ほんとは殺さないんだけどね☆☆☆

論文に載らない知見

我々は,実際に物に触れなくても,見るだけでその物の手触りが分かるときがあります。分かるからこそ触りたい。でも,触って良いものと悪いものがある。なんと悩ましいことだろう。

さて,従来より,視覚と触覚間における情報のやり取りには,言語的・意味的な過程が関与していると言われてきました・つまり,犬と言えば柔らかいな,とか,この表面の感じは見るからに岩だから堅いだろうな,とか。これは言語的媒介説と呼ばれ(Blank & Bridger,1964),モダリティ間現象を説明する原理として,ちやほやされてきました。ちなみに,fMRI研究でも,物品の材質的・材料的な側面をイメージする際には,意味過程に関与するといわれる部位が賦活することが示されています(Newmanら,2005)。

つまり,目で見て手触りを知るというときには,そもそもその物について,よく知っていないとイカンわけです。実際に触れた経験があって,それを覚えているから,触らなくても触感が分かる。これを例えると,赤ん坊のほっぺを見て柔らかそうやなぁと思うのは,それが赤ん坊のほっぺだと分かるからであり,同時にそれを触ったことがあるからなのだ,という事になるのかもしれません。ちなみに,目で見て物の触感を判断する際,対象となる物品について熟知度が高いと,触感の判断が正確になるという知見もあります(池田ら,2002)。

以上より,一つの可能性が導かれます。視覚刺激から触覚的情報を得るという場合,その対象物がそもそも命名可能なものであるかどうかが,得られる触覚的情報に影響を与えているのではないか。前にやった研究で,これに関連するデータを得ることができました。でも,ある意味たまたま得られた知見だったりするので,論文にはしてないし,発表する予定もありません。ということで,ここに書くことにしました。

方法ですが,大学生30名程度に対して,様々な自然物なり物品なりのテクスチャ画像32枚を一枚ずつPCで呈示し,呈示された画像についての命名を求めました。さらに,その画像から触感をどの程度鮮明にイメージできるか(触覚イメージ鮮明性)を問いました。さらに,その画像から受ける印象を触覚に関連する擬態語によって印象評定してもらう,というのもありましたが,ここでは述べません。なお,画像はデータクラフトの素材辞典から引用しました。全て輪郭のない表面のみのカラー画像でした。

結果を簡単に。まず,各画像の命名は自由記述データなので,数名で協議し,同一内容を示すと考えられるものをまとめて集計し,命名一致率を算出しました。これを用いて,「視覚刺激から触覚的情報を得るという場合,その対象物がそもそも命名可能なものであるかどうかが,得られる触覚的情報に影響を与えているのではないか」という仮説を検討するために,命名一致率を独立変数,触覚イメージ鮮明性を従属変数とした回帰分析を行いました。ちなみに両変数の相関係数は,r = .88でした。もはや回帰は不要ではないかとも思いますが一応。R二乗値は.77,回帰係数は.88でした。

結果から,対象物の命名率が,その対象物から受ける触覚イメージ鮮明性に大きな影響を与えていたということが読み取れます。つまり,視覚情報から触覚情報を得る場合には,その対象物を容易に命名可能であるということが,得られる情報量を大きなものにしている,と言えるかもしれません。


結論。

おっぱいを見て柔らかそうだと感じるのは,それがおっぱいだと分かるからである。


…。なんつーかもう,


台 無 し 


ですね。以上,適当な研究報告でした。身元バレ?上等上等。

それはマトリョーシカだったのだ

ワークショップについて。


Experimental PsychopPathological Clinical Psychologyという,方法と対象と目的を明示する名称。「ル」が多くて語呂は良くないけど,格好良い。

好き勝手やる話題提供者と,ディスカッションに統一的な視点を与える指定討論者。なんとも有難く,同時に「してやられた」感じも抱いたり。

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こんなに疲れるものをやるのならば

勤務先にWAIS-IIIが導入されたので,実施前に受けてみた。どんな検査でも,身につける前に自分が被験者になるのが良いというのもあるし,単純に自分のパフォーマンスがどんなもんか知りたい気持ちもあったからだ。ということで,ガチで取り組んだ。とはいえ,WAIS-Rと被ってる内容も多かったので,それはそれとして,なんだけども。

で,感想。前に少しだけ触れた際に書いたとおり,受けるのが非常に過酷な検査だった。あんなしんどいもんを,メジャーでフラフラかつ寝起きな御方に実施するなんてのは,悪魔の所業だと思えなくもない。こんなもんを実施するくらいなんだから,受けた人が相当の利益を得られるように,我々はベストを尽くさねばならん。検査を受ける人々は,こちらのお勉強のためにそこに居るわけではないのだから。

ちなみに,2時間かかっても全ては終わらず,まだあと30分くらいはかかりそう。これまでのところを見ると,意外に動作性が高そうなのだけど,一方で符号が死ぬほど落ちまくっているのが衝撃的だった。思わず,いやぁ寝起きだからさぁ,などと言い訳したくなったほどだ。


んで以下,検査に関する雑談。

どんな検査でもそうだけど,数字だけで解釈を云々しようとするのは専門家として根本的に誤っている。それが人格検査であろうが,知能検査であろうが,神経心理検査であろうが,我々が見るべきはパフォーマンスそのものだ。数字というのは非常に多義的かつ抽象的なものなので,観察された具体的なパフォーマンスが有する情報量と比べて,それが有する情報量は常に少なく,そして不明確だ。これは,現象が常に理論よりも豊かな情報量を持っているというのと,ほとんど同じことだと思って良い(と思う)。

まぁそこから解釈上の作業仮説を捻り出すことは可能だし,全く数字を無視した解釈というのも自分勝手なものになりがちで,もう少し言うとその数字自体が必要とされる状況も多々あるわけだから,それを全く否定してしまうつもりは毛頭ありまへん。しかし,こんだけしんどい検査に見合うベネフィットを提供するには,パフォーマンスを見て見て見倒して,背景となるプロセスを推測し倒して,それを検証し倒して,資源となる機能を見つけ倒して,可能な援助に思いめぐらし倒して,さらに可能な場合はフィードバックセッションの準備をし倒すくらいのことは,やってて当たり前だ(と思う)。

「検査取れるようになりたいんです~」と言うとき,その人は何を想定しているだろうか。単に実施して,通り一遍な解釈ができれば,それでOKだと思ってはいないだろうか。言うまでもなく,それは全くガキの使いに過ぎなくて,方法と目的を混同しているとしか思えない。検査は単に方法に過ぎなくて,それは非常に便利な代物なのだけど,それを実施することは目的とはなり得ない(と思う)。じゃあ何が目的になるのかってのは,もう言うまでもなく査定であり,さらに言うと援助だ。だから,「検査取れるようになりたいんです~」の代わりにこれくらいは言って欲しい。「検査を通じて,査定を基本から学びたいんです~」とか。


今日は何だか偉そうな事を書いた。ブログで臨床の事を書くのはあんまり好きじゃないのだ。というか,我々の仕事のどこに説得力が生まれるかというと,それは何千と並べられた言葉の羅列にではなくて,1つ1つの臨床的な行為にだと思うから,あんまり臨床について大事吹くのは好きではない。なんぼ立派な事を吹いてみても,それに実が伴っている保証などどこにも無いし,全然立派じゃない事を書き散らかしてみても,実際に力量が足りていない保証なんぞ,どこにも無いのだ。あなたのスーパーバイザーは,その壇上で語る老人は,本当に腕の良い臨床家なんかいな。あなたがくさす若者は,本当に腕の無い臨床家なんかいな。そしてそれを言うあなたは,一体どんな臨床をやっとるんだろうか。


俺にはそれが,分からないのだ。

おにぎりに至る病は不治の病ではなかった

今日は昼に時間が空いていたので,3ヶ月ぶりに髪を切ったきた。

こちらに住んで,気付けばもう6年目になるのだが,ずっと同じ店の同じ人に切ってもらっている。思えば長い付き合いだ。会員証に書かれた来店の日付は,自分でも感心してしまうくらい,綺麗に3ヶ月に一度のペースを刻んでいる。このペース,自分では全く意識していないのだが,おそらく俺の中にある何らかのセンサーが,何らかのサインをキャッチし,そして何らかの信号を発信した結果,そうなっているのだろう。そうに違いない。

どの店でもきっとそうなのだろうが,髪切りチェアーで美容師を待っている間,アシスタント的な趣の人々が非常に洒落た髪型雑誌を手渡そうとしてくる。これは本当に毎回だ。そして俺は,あ,ナンバーとかありますか?とその受け取りを拒否するのである。これも本当に毎回だ。これだけ長く通っているのだから,いい加減そこらへんの具合を覚えてくれても良いような気もするが,どうか。

しかし,ああいった雑誌を何の抵抗もなく受け取って,これにしようかなあれにしようかなと,はしゃげる気持ちが分からない。コンビニで試しに立ち読みしてみたこともあるが,そこに登場するのは異性の目を存分に意識したチャラ男ばかりではないか。いや,そりゃあ俺だって異性の目は存分に意識してはいるけれども,ああいったチャラけ世界にはどうも入っていけないのだ。

そういった雑誌に限らず,いかにもイケていて,いかにも洒落てる輩が,時折「いや俺はそういうの意識しないからw自然自然wシンプルwうちの部屋ってあんま物無いんだよねw」みたいなことをほざいているのを見ることがある。何が自然派だ。笑わせるな。本当に何事をも意識せず,自然でシンプルなのだとしたら,なぜお前はそんなにチャラい風体なのだ。モテたいならモテたいと正直に言え,この馬鹿野郎。僕のシンプルはファッショナブル・シンプルですと言え,この馬鹿野郎が。

妻が割と有名な服屋さんでパートをしているのだが,そこのキモメン店員達の生態を聞くのも楽しみだ。奴らは昼食から夕食まで,オシャレなカフェやバーで摂らないと気が済まないらしい。読む本も,聞く音楽も,見る映画も,何もかも洒落ていないと気が済まないのだそうだ。なぜそんなにも洒落ていたいのか。カフェだかなんだか知らんが,一体全体そういうところにばかり行こうとする目的は何なのだ。その辺り,誰かこの阿呆にも分かるように教えて頂ければと思うが,どなたかそういう奇特な方はおられませんか?


思えば,こうして定期的に美容院に通うようになるなど,大阪時代には思いもしなかった。中学時代には,何を間違ったか「ツーブロックにした髪の毛を後ろに流れる感じにして欲しいのだが,どうにかならないだろうか」と行きつけの床屋に相談した俺様の髪の毛は,非常に大量かつ,自己主張の強い,しかしながら真っ直ぐかと言われると微妙にひねくれている,扱いづらい髪の毛であった。我ながら非常に回りくどく分かりにくい言い方になってしまったが,つまるところ剛毛だから普通に手を加えたくらいでは良い感じに後ろに流れたりはしない,ということだ。

そこで少し考え込んだ床屋のオッサンが出した提案は「アイパーかけよう」というものだった。今からするとホームラン級の阿呆提案のように思うが,オッサンの引き出しから捻り出されたものがそれだった以上,頼む場所を間違った俺が阿呆だと言わざるを得ない。当時の俺はアイパーというものが,一体どういうものなのかを全く知らずに,その甘い誘惑に乗ってしまったわけなのだが,結果的に出来上がったのは,まるでアロンαで固められたヒジキさながらの,珍妙な髪の毛型オブジェであった。風が吹いてもなびかない。水に濡れても崩れない。素晴らしき形状記憶機能である。

それに懲りた俺は,それ以降パーマをあてたことがない。そしてこの先も,きっとそれをやらないだろう。大した理由は無いのだが,先述のセンサーが「それはやめておけ」と強く主張しているような感じがするのだ。ん~,なんとも非常にハッキリしない言い方になってしまったが,やはり服でも髪の毛でも,あんまり「これやりました!」みたいなのは耐え難い。なんとも言い難いが,そういうのはあんまり好きじゃないのである。

ただ,外見に頓着しないと思われがちな俺だが,実際には非常に頓着しているということを告白せねばなるまい。人に勧められて服を買うことは皆無だし,近寄ってくる店員などは正直なところハエかカナブン程度にしか思っていない。当然のことながら,自分がこれと思うものにしか,金を出す気がしないのだ。お前の意見など端から聞く気はない。俺も話しかけないから話しかけるな。

じゃあどういうのが好きなのかという話になるが,それはそれで何の面白みもなく,あまり目立たない,変わっていない,普通のものが好きだとしか言いようがない。それでいて,同時に過剰気味な自意識メーターが振り切れてしまわないような,恥ずかしく感じずに済む物が良い。他のことでは極端を好むのだが,ことそういった事柄に関しては,中間こそ我が居場所なのだろう。



今まさに,大いに話が逸れていることに気が付いた。

と言ったそばから,逸れるも何もそもそも話の本線すらグラグラと定まっていないのだから,別にこうして改める必要も無いように思ったのだが,どうか。

というか,何の話でしたっけ?

研究者の喜びは,きっと世界に何かを残す

「面白いだけで研究するのはどうなのか」って事について,いくらか反応がありました。で,某所へのコメントとしてこれを書いてたら,なんか面白くなってきて,しかも長くなってきたので,こちらに書くことにしました。

もう,考えすぎて話の出所さえ不明になってきている今日このごろなんですけど,あれって僕が直接言われた事ではないんですね。仲間から聞いた話で。なので,それを言った人の真意なんて分からない。結局僕が書いているのは,仮想敵に対する僕の考えですから,まぁ話半分に聞いてもらえたら良いです。

僕は基礎研究を擁護したくてあの話を書いたわけでは,全くないんですよね。社会の役に立たない研究でも良いじゃないか,と言いたいわけでは全然ない。そういう基礎×応用・工学みたいな文脈ではなくて,研究のモチベーションなんて何でも良いやんけ,っていうめっちゃ個人的な文脈での話なんですよ。基礎だろうが工学だろうが応用だろうが,自分が面白いと感じている事は,同じく尊いと思いますしね。別に基礎研究に特有の話では全くない。

テーマへのこだわりがあるからこそ,深くその問題を突き詰め掘り下げる事ができて,その結果ちょっと変わった話が出てくる可能性が高くなるんじゃあないかと思うんですよ。もちろんオリジナリティだけが評価軸なワケではありませんから,それが無くてもそれはそれで良いんですけど,僕個人はそれを中心に据えたい。だからとにかくこだわりたい。その方がオモロイから。それに,そういうちょっと変わった話が,変わった話じゃなくなるときに,新しい世界が切り開かれたと言えるんじゃないか,とも信じてます。

とはいえ,やっぱりそこまでやるのは結構大変な作業やから,喜びという燃料はそれなりに必要で,なんの喜びも得られないのなら,そこまでこだわらんでも良いやんけとなってもしょうがない。みんながそうなったら,一体全体科学はどうなると思うんや?と聞きたいんですよ。みんながある程度でこなし始めたら,科学の未来はどうなると思てはりますか?って。

得られる喜びは様々でしょうが,「自分が面白いと感じている」というのもその一つに数えられるわけでしょう。一方では「これが社会に役に立つ!」というのも面白みだし喜びの一つではある。もちろん。結局燃料は何でも良いと思うんです。何らかの喜びがあるのなら,それはホントに大切にしていこうぜと思うので,それを否定する物言いに,僕は全く賛成できないんですよ。

研究者の喜びは,長い目で見るときっと社会に何かを残す。もう,完全に個人的な思想のレベルなんですけど,そう思ってます。心から。

じゃあ,それでどうやって飯を食っていくのかってのは,研究者というか,社会人としても考えて当たり前の事ですから,全然研究者に特有の話では無い。そんな事は考えて当たり前です。むしろ,研究者なら研究者に特有の事柄をまず考えれば良いのとちゃいますか?と言いたい。それは知的好奇心でも良いし,社会貢献でも良いんですよ。何でも良いんです。ほんとに。

ただ飯が食いたいだけなんだったら,別に研究者じゃなくても,どんなアイデンティティでもええんちゃうの?研究者だって,喜びと生活の狭間でウジウジと葛藤したら良い。この葛藤は,非常に高級なものやと思いますよ。個々人の人生の深いところにまで関わってくる葛藤なんだから。それにね,自分が面白いと感じていなくても,やりたいとは全く思えなくても,やらねばならない研究だってあるんだから。研究者としてのアイデンティティを持ったまま,そういう立場に置かれてる人だって山のようにいるわけなんだから。加えてね,研究以外の事でだって,やらねばならない事は山ほどあるわけなんだ。世の中見渡して,純粋な意味での「研究者」なんていう職業,ありますか?だからね,そんなもん,そのように葛藤できる余地があるのなら,十分に葛藤したら良いと思うわけ。そんな幸福な立場にある人間がね,初めから物わかりよくなる必要なんてどこにあるんですか。

研究に足りないところなんて,それこそ偏執的なこだわりによって,見つけ出していく事ができるかもしれない。それに,そんなもんは人が見つけてくれるかもしれない。研究は一種のコミュニケーションでもあるんだから。コミュニケーションにおいて,おもんない話なんて長々と聞いてられないんですよ。同じネタでもねぇ,そのネタの面白みを知ってる人が話す方が面白いわけなので,「あなたの面白いと感じている事を教えて欲しい」となるんです。つまり,「自分が面白いと感じている」という事はね,相手に面白がってもらうのに役立つわけでしょう。そういう意味でも,どんどん自分だけの面白みを見つけたら良いと思うし,人から面白みを教えてもらえば良いと思う。それで,もっと面白くなるように工夫したら良いんです。

10年後,20年後に,自分が同じ事を考えているかは全く分からない。だけども僕は近眼ですから,そんなもんは知ったことではないんです。中2病とかなんとか言ってね,その時々の自分の真剣さを,茶化してしまう必要なんてあらへんのですよ。これはまぁ,ちょっと話が違いますけど。とにかくね,状況がそれを許すのであれば,そしてやりたいことが分かっているのであれば,それをやれば良いじゃあないですか。それ以外に,他にやること,ありますか?実際にそれをやれるかどうかは別として,それをやろうと決めることくらい,誰にだってできるわけなんだ。あなたは現に生きていて,やりたいことをやるという,この上ないチャンスを,ちゃんと手にしているんだから。

脳内補完に関する,どうでもいい話をしようか

5年ぶりくらいに,「グラフでボクシング」にはまり,数時間を無為に費やしてしまった。脳内補完を何よりの喜びとする俺様としては,これくらいの情報量の少なさがかなり心地好いのだ。この脳内補完遊びについて,後輩院生に話してみたところ,けっこう珍しがられた。みんな,ゲームやってて,自分なりにストーリー作ったり,しないの?

例えば,スーパーマリオなんかも脳内補完し放題の良ゲーだ。

あぁ,このマリオは難しいステージでもスイスイと進んでいく,本物のエースだ。ん~,このすぐ死んだマリオはまだ戦場に出るにはまだ早い,ルーキーだったんだな。将来有望だったかもしれないのに,なんてむごいことだ。おお,なんということだ,歴戦のエースが遂にやられた。我が方の士気が低下するではないか。というところに,またもスイスイ進むマリオが登場。彼が居なくなっても,新たな世代が育ってきているんだな。彼の死も,歴史の中の必然だったのかも知れない。そしてこのマリオは,かのエースの息子で,父の無念を晴らすべく,今まさに死地に向かおうとしている。なんという勇敢な若者だろう。


こういうのが,楽しくて仕方ないのだ。ウィニングイレブンでも,ギレンの野望でも,むしろ脳内補完がメインになっている感さえある。例えばギレンの野望では,無名の兵士に脳内設定を与え,そいつを中心にストーリーを作っていく。ザクの3機小隊の先陣を切っている彼。しかし,彼が乗っている事にしていたザクはあっけなく撃墜される。嫌だ。まだ彼を殺したくない。だから,2番機に乗っていたことにする。その内に2番機も3番機も撃墜される。まだまだ彼を殺したくない。だから,今日は急病で戦場を離れていたことにする。彼が戦場を離れていた間に,彼の所属小隊は全滅。失意の中,新たに配属された小隊で,戦う意味を見いだせぬまま,苦悩する彼。無印MSで敵方の重要部隊を撃破したら,その無印MSには彼が乗っていたことにする。苦悩を乗り越え,敵のエースを撃墜する名も無きパイロット。それが彼だ。

脳内補完は,自由だ。何をやっても構わない。後付の設定で,いくらでも気持ちの良い展開を創り出すことが出来る。なんという楽しき遊びだろうか。誰に語るわけでもないストーリーを,自分勝手に創りだしていくのだ。誰にも邪魔されない,最高に楽しい時間。最近のゲームは説明過剰,演出過剰のものが多すぎる。見せすぎているのだ。ディテールなんて,最小限で良い。全てを見せてくれなくても良いのだよ。

「太陽のしっぽ」の潔さを見よ。広大な大地を走り回る原始人達に,如何ほどのディテールが与えられていただろう。各地に点在する不可思議な建造物について,どれほどの説明が与えられていただろう。不可思議な動物達に関する詳しい情報を,どうすれば知ることができただろう。太陽のしっぽで我々に与えられるディテールは,道に落ちている和菓子型木の実に関する,どうでも良い説明のみである。なんと素晴らしき,説明不足。ゲームだけじゃない。映画でも,アニメでも,マンガでも,音楽でも,なんでもかんでも,説明過剰,演出過剰のものは好かん。説明不足によって生じる間が,私の精神に自由を与えてくれるのだ。押しつけられる感動を,私は好かん。押しつけられる萌えも,私は好かん。とにかく黙って,隙間をこちらによこしなさい。

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