その過程に,その巡り合わせに,意味を感じている

ここ2日ほど,久々な人々と時間を共にすることができた。

不思議なもので,その内には連絡したいなぁとか,その内には食事でも行きたいなぁとか,最近連絡こねえなぁと思っていた人々と,なんだか良く分からない巡り合わせで繋がる繋がる。なんとも良い時間を過ごすことができた。無理に連絡を取ろうとしなくても,いつしか勝手にそうなっていくのだなと思った。

今週末に他大との臨床合宿があって,そのカンファレンスにケースを提供することになった。当初学内ケースでと思っていたのだが,どうにもこうにも,クリニックでお会いしていたクライエントの事が頭から離れず,そっちを発表することにした。行動療法を通じた,面接過程。方法の力ももちろんあったように思うけれど,それ以上に治療関係がキーになっていたように思う,とても印象深いケースだ。資料作成に当たって,改めてこれまでの過程を見直してみると,なんだかしみじみしてしまう。で,その辺に居る院生達に,しみじみを伝えて歩いてしまう。


ところで,「認知行動療法(or something)に興味があります」なんて言葉を良く聞くのだけど,そういうもんでもないんじゃないか。結局の所,それは方法に過ぎないのだから。方法として,本当によくデザインされた方法だとは思うし,ケースによっては導入したり,それ関係の極秘業務もあったりするのだけど,やればやるほど,知れば知るほど,治療関係とか面接過程そのものこそが根本なんじゃあないかと強く思う。コラムなり曝露なり,なんでも良いんだけど,そこに意味が伴うか否かが,成否を分ける要因のような気もしたりする。そういう事に,最初に気付かせてくれたケース。


いつかどこかで発表したいと思っていたところに,自然と機会が得られたり。しかも自然と合宿後にそのケースのSVerと会うことになったり。これもまた不思議な巡り合わせだ。そういう何だか良く分からない流れに乗っかって,良い週末を過ごせたら良いなと思う。

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神経科学+擬人化(美少女)の可能性

風邪が随分良くなってきた。

風邪なんてもんは,一日寝れば治るもんだと思っていた。そして実際,これまではそうだった。しかし今回は丸一週間かかって,ようやく病み上がり状態にこぎ着けたという具合。ん~,体力が落ちているのだろうか。キツイ風邪だったのだろうか。なにぶん久しぶりの風邪だったので,良く分からん。


風邪も復調したこの良き日に,神経心理の論文部にて,純粋失書のケースを報告した。この準備が非常に楽しく,国内の失書論文のアブストを手当たり次第読みまくってしまう。神がかったサイトも発見。

チクショウ…検査でお会いする前にこれを知っておれば…あぁ忌々しきこの勉強不足…と本当に思った。掘れば掘るほど分からなくなっていくような,素敵な世界じゃあありませんか。非常にマニアック。いま思えば行動観察も甘く,工夫も足りんかった。学会発表すれば,と有難いお言葉を頂くが,これはちょっとそういうレベルには達していないなぁと思う。しかし,認知的構えの転換がうまくいかない事が,この失書に影響を及ぼしているかもしれない,というような議論になったりして,それは大変面白かった。そういう論文はあるんかしら。

とはいえ,今後まだ同じような病態の方とお会いできるかは分からん。それくらいに,失書という症状の背景は様々有りすぎる。書字という行為が,いかに複雑なプロセスを経ているかを思い知る。細やかな観察と共に,概念が必要だ。それ無しには手も足も出ない。

なお,この本は本当に良い本だと思う。


426000493X神経文字学―読み書きの神経科学
岩田 誠 河村 満
医学書院 2007-10

by G-Tools



近い将来的には,やっぱりこっちの方向もやっていきたいと思う。紀要に認知実験論文載せて,今度は神経心理?ってかロールシャッハじゃねぇの?みたいな感じもするのだけれど,本人としては全部同じ事のつもりだったりして。


あと,神経心理のモデルはどういう形が分かりやすいかという話で,ある人は局在に対応させた図式化が良いと言い,ある人は機能だけを抜き出した図式が良いと言い,という情勢なのだそうだ。俺としては,やっぱり頭の中の小人さんモデルが一番分かりやすい。擬人化するとしたら,やっぱ美少女だろうか。前頭葉は社長さん,なんていう本があるが,前頭葉は学級委員長(メガネ娘)みたいな設定も楽しいような気がする。割とキャラ立ちしそうな部位もあるように思うが,どうだろうか。

新しいSPSSに新しい機能

学内で大盤振る舞いされているSPSS(PASW)のVer17.0をインスコした。

ようやくRをちょろちょろと使えるようになってきた今日この頃,ついに一般化線型モデルがフォローされているじゃありませんか。Rを使って真似事程度にやっていたレベルの分析であれば,これで十分に対応できそう。ちょっと前までは,なんとかSTATAを使えないかと色々考えたりもしたのだが,それももう必要なくなった。

ちなみに,勢い余って先日ついに購入したField先生の「Discovering Statistics Using SPSS」の3rd editionには,一般化線型モデルの大見出しが無い。小見出しもない。索引にも載ってない。しかしまぁ,この本は分かりやすいし面白い。どっかの面白心理学者が翻訳してくれないだろうか。ちなみに,改訂に当たって300ページも書き足したんだそうな。

1847879071Discovering Statistics Using SPSS
Andy Field
Sage Publications Ltd 2009-03

by G-Tools


円高だし,買い時でしょう。これは。

こんなに疲れるものをやるのならば

勤務先にWAIS-IIIが導入されたので,実施前に受けてみた。どんな検査でも,身につける前に自分が被験者になるのが良いというのもあるし,単純に自分のパフォーマンスがどんなもんか知りたい気持ちもあったからだ。ということで,ガチで取り組んだ。とはいえ,WAIS-Rと被ってる内容も多かったので,それはそれとして,なんだけども。

で,感想。前に少しだけ触れた際に書いたとおり,受けるのが非常に過酷な検査だった。あんなしんどいもんを,メジャーでフラフラかつ寝起きな御方に実施するなんてのは,悪魔の所業だと思えなくもない。こんなもんを実施するくらいなんだから,受けた人が相当の利益を得られるように,我々はベストを尽くさねばならん。検査を受ける人々は,こちらのお勉強のためにそこに居るわけではないのだから。

ちなみに,2時間かかっても全ては終わらず,まだあと30分くらいはかかりそう。これまでのところを見ると,意外に動作性が高そうなのだけど,一方で符号が死ぬほど落ちまくっているのが衝撃的だった。思わず,いやぁ寝起きだからさぁ,などと言い訳したくなったほどだ。


んで以下,検査に関する雑談。

どんな検査でもそうだけど,数字だけで解釈を云々しようとするのは専門家として根本的に誤っている。それが人格検査であろうが,知能検査であろうが,神経心理検査であろうが,我々が見るべきはパフォーマンスそのものだ。数字というのは非常に多義的かつ抽象的なものなので,観察された具体的なパフォーマンスが有する情報量と比べて,それが有する情報量は常に少なく,そして不明確だ。これは,現象が常に理論よりも豊かな情報量を持っているというのと,ほとんど同じことだと思って良い(と思う)。

まぁそこから解釈上の作業仮説を捻り出すことは可能だし,全く数字を無視した解釈というのも自分勝手なものになりがちで,もう少し言うとその数字自体が必要とされる状況も多々あるわけだから,それを全く否定してしまうつもりは毛頭ありまへん。しかし,こんだけしんどい検査に見合うベネフィットを提供するには,パフォーマンスを見て見て見倒して,背景となるプロセスを推測し倒して,それを検証し倒して,資源となる機能を見つけ倒して,可能な援助に思いめぐらし倒して,さらに可能な場合はフィードバックセッションの準備をし倒すくらいのことは,やってて当たり前だ(と思う)。

「検査取れるようになりたいんです~」と言うとき,その人は何を想定しているだろうか。単に実施して,通り一遍な解釈ができれば,それでOKだと思ってはいないだろうか。言うまでもなく,それは全くガキの使いに過ぎなくて,方法と目的を混同しているとしか思えない。検査は単に方法に過ぎなくて,それは非常に便利な代物なのだけど,それを実施することは目的とはなり得ない(と思う)。じゃあ何が目的になるのかってのは,もう言うまでもなく査定であり,さらに言うと援助だ。だから,「検査取れるようになりたいんです~」の代わりにこれくらいは言って欲しい。「検査を通じて,査定を基本から学びたいんです~」とか。


今日は何だか偉そうな事を書いた。ブログで臨床の事を書くのはあんまり好きじゃないのだ。というか,我々の仕事のどこに説得力が生まれるかというと,それは何千と並べられた言葉の羅列にではなくて,1つ1つの臨床的な行為にだと思うから,あんまり臨床について大事吹くのは好きではない。なんぼ立派な事を吹いてみても,それに実が伴っている保証などどこにも無いし,全然立派じゃない事を書き散らかしてみても,実際に力量が足りていない保証なんぞ,どこにも無いのだ。あなたのスーパーバイザーは,その壇上で語る老人は,本当に腕の良い臨床家なんかいな。あなたがくさす若者は,本当に腕の無い臨床家なんかいな。そしてそれを言うあなたは,一体どんな臨床をやっとるんだろうか。


俺にはそれが,分からないのだ。

おにぎりに至る病は不治の病ではなかった

今日は昼に時間が空いていたので,3ヶ月ぶりに髪を切ったきた。

こちらに住んで,気付けばもう6年目になるのだが,ずっと同じ店の同じ人に切ってもらっている。思えば長い付き合いだ。会員証に書かれた来店の日付は,自分でも感心してしまうくらい,綺麗に3ヶ月に一度のペースを刻んでいる。このペース,自分では全く意識していないのだが,おそらく俺の中にある何らかのセンサーが,何らかのサインをキャッチし,そして何らかの信号を発信した結果,そうなっているのだろう。そうに違いない。

どの店でもきっとそうなのだろうが,髪切りチェアーで美容師を待っている間,アシスタント的な趣の人々が非常に洒落た髪型雑誌を手渡そうとしてくる。これは本当に毎回だ。そして俺は,あ,ナンバーとかありますか?とその受け取りを拒否するのである。これも本当に毎回だ。これだけ長く通っているのだから,いい加減そこらへんの具合を覚えてくれても良いような気もするが,どうか。

しかし,ああいった雑誌を何の抵抗もなく受け取って,これにしようかなあれにしようかなと,はしゃげる気持ちが分からない。コンビニで試しに立ち読みしてみたこともあるが,そこに登場するのは異性の目を存分に意識したチャラ男ばかりではないか。いや,そりゃあ俺だって異性の目は存分に意識してはいるけれども,ああいったチャラけ世界にはどうも入っていけないのだ。

そういった雑誌に限らず,いかにもイケていて,いかにも洒落てる輩が,時折「いや俺はそういうの意識しないからw自然自然wシンプルwうちの部屋ってあんま物無いんだよねw」みたいなことをほざいているのを見ることがある。何が自然派だ。笑わせるな。本当に何事をも意識せず,自然でシンプルなのだとしたら,なぜお前はそんなにチャラい風体なのだ。モテたいならモテたいと正直に言え,この馬鹿野郎。僕のシンプルはファッショナブル・シンプルですと言え,この馬鹿野郎が。

妻が割と有名な服屋さんでパートをしているのだが,そこのキモメン店員達の生態を聞くのも楽しみだ。奴らは昼食から夕食まで,オシャレなカフェやバーで摂らないと気が済まないらしい。読む本も,聞く音楽も,見る映画も,何もかも洒落ていないと気が済まないのだそうだ。なぜそんなにも洒落ていたいのか。カフェだかなんだか知らんが,一体全体そういうところにばかり行こうとする目的は何なのだ。その辺り,誰かこの阿呆にも分かるように教えて頂ければと思うが,どなたかそういう奇特な方はおられませんか?


思えば,こうして定期的に美容院に通うようになるなど,大阪時代には思いもしなかった。中学時代には,何を間違ったか「ツーブロックにした髪の毛を後ろに流れる感じにして欲しいのだが,どうにかならないだろうか」と行きつけの床屋に相談した俺様の髪の毛は,非常に大量かつ,自己主張の強い,しかしながら真っ直ぐかと言われると微妙にひねくれている,扱いづらい髪の毛であった。我ながら非常に回りくどく分かりにくい言い方になってしまったが,つまるところ剛毛だから普通に手を加えたくらいでは良い感じに後ろに流れたりはしない,ということだ。

そこで少し考え込んだ床屋のオッサンが出した提案は「アイパーかけよう」というものだった。今からするとホームラン級の阿呆提案のように思うが,オッサンの引き出しから捻り出されたものがそれだった以上,頼む場所を間違った俺が阿呆だと言わざるを得ない。当時の俺はアイパーというものが,一体どういうものなのかを全く知らずに,その甘い誘惑に乗ってしまったわけなのだが,結果的に出来上がったのは,まるでアロンαで固められたヒジキさながらの,珍妙な髪の毛型オブジェであった。風が吹いてもなびかない。水に濡れても崩れない。素晴らしき形状記憶機能である。

それに懲りた俺は,それ以降パーマをあてたことがない。そしてこの先も,きっとそれをやらないだろう。大した理由は無いのだが,先述のセンサーが「それはやめておけ」と強く主張しているような感じがするのだ。ん~,なんとも非常にハッキリしない言い方になってしまったが,やはり服でも髪の毛でも,あんまり「これやりました!」みたいなのは耐え難い。なんとも言い難いが,そういうのはあんまり好きじゃないのである。

ただ,外見に頓着しないと思われがちな俺だが,実際には非常に頓着しているということを告白せねばなるまい。人に勧められて服を買うことは皆無だし,近寄ってくる店員などは正直なところハエかカナブン程度にしか思っていない。当然のことながら,自分がこれと思うものにしか,金を出す気がしないのだ。お前の意見など端から聞く気はない。俺も話しかけないから話しかけるな。

じゃあどういうのが好きなのかという話になるが,それはそれで何の面白みもなく,あまり目立たない,変わっていない,普通のものが好きだとしか言いようがない。それでいて,同時に過剰気味な自意識メーターが振り切れてしまわないような,恥ずかしく感じずに済む物が良い。他のことでは極端を好むのだが,ことそういった事柄に関しては,中間こそ我が居場所なのだろう。



今まさに,大いに話が逸れていることに気が付いた。

と言ったそばから,逸れるも何もそもそも話の本線すらグラグラと定まっていないのだから,別にこうして改める必要も無いように思ったのだが,どうか。

というか,何の話でしたっけ?

学校臨床は面白いかもしれない

これまでずっと医療でやってたが,今年度からSCをやることになった。正直,全く分からん世界だったので,不安の方が大きかったのだが,何度か勤務してみて,学校臨床って面白いかもしれないと思うようになった。

医療とはやることが全く違うぞと,ワーカー的な動きが必要だぞと,その他諸々,様々なご意見を拝聴して,あぁそういうものかと納得していたが,正直なところ根本的にはさほど変わらんように思わなくもない。ってか,まだまだ分かってないだけなのかもしれんけど。

もちろん,細かいお仕事の1つ1つは違うし,必要とされる引き出しも随分違うけれど,結局見立てと手だてを大事にするというのは変わらんように思う。見立てや手だては,そもそも心理士なりClなりが置かれている状況と無関係に成立する物ではないし,学校という環境,SCという立場なんかを考慮に入れるのは当たり前だと思う。

医療にしたって,病院なりクリニックなり何なりはClの生活事象の一つなわけだし,Clが利用可能な資源の一つに過ぎない。結局は,それらを含めたClの生活全体を俯瞰する目が必要なのは当然だ。何をやれるかという点でも,特にサポーティヴセラピーの場合は,役立つことならなんでもやるようにしてる(っつっても,もちろん枠はある)。

結局は,SCを学校とか地域に存在する資源の一つに位置づけられるか,あるいは,どのように位置づけられるかが勝負なんだと思う。そして,基本はサポーティヴセラピー的な姿勢なんじゃあないかと思う。Clの過去と現在と未来を俯瞰し,Clが生きている環境を俯瞰し,自らが置かれている状況を俯瞰し,やれることならなんでもやる。別に何かしらをやるのはSCじゃなくでも良いのだし,SCであっても良いのだし,特定の誰かでなくても良いのかもしれないし。そして,誰を・何をClと捉えるかってのも考えどころだ。それは担任なのかもしれないし,生徒なのかもしれないし,保護者なのかもしれないし,学校その物なのかもしれないし,それを一つに絞ってしまうこともないように思うが,どうなんだろうか。なんというか非常に多層的というか,俯瞰的な考え方が役立ちそうだ。


ということで,まずは学校内にSCを位置づけんといかんと思い,最初の数回はそういう事に費やした。人見知りな俺様には非常にガッツのいる作業だったが,ともかく様々に動き回り,設備を整え,全教員と情報交換できる状態にはなった。生徒にもボチボチ顔を覚えられ,声をかけられるようになり,大阪弁ってのはこんなにも使えるツールだったのかと感動しているところだ。

この先どういう戦略でいくか色々考えながら,そして腕利きに色々聞きながら,内心フガフガ「学校臨床って面白いかもしれないぞ」と思うのだった。
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