論文に載らない知見

我々は,実際に物に触れなくても,見るだけでその物の手触りが分かるときがあります。分かるからこそ触りたい。でも,触って良いものと悪いものがある。なんと悩ましいことだろう。

さて,従来より,視覚と触覚間における情報のやり取りには,言語的・意味的な過程が関与していると言われてきました・つまり,犬と言えば柔らかいな,とか,この表面の感じは見るからに岩だから堅いだろうな,とか。これは言語的媒介説と呼ばれ(Blank & Bridger,1964),モダリティ間現象を説明する原理として,ちやほやされてきました。ちなみに,fMRI研究でも,物品の材質的・材料的な側面をイメージする際には,意味過程に関与するといわれる部位が賦活することが示されています(Newmanら,2005)。

つまり,目で見て手触りを知るというときには,そもそもその物について,よく知っていないとイカンわけです。実際に触れた経験があって,それを覚えているから,触らなくても触感が分かる。これを例えると,赤ん坊のほっぺを見て柔らかそうやなぁと思うのは,それが赤ん坊のほっぺだと分かるからであり,同時にそれを触ったことがあるからなのだ,という事になるのかもしれません。ちなみに,目で見て物の触感を判断する際,対象となる物品について熟知度が高いと,触感の判断が正確になるという知見もあります(池田ら,2002)。

以上より,一つの可能性が導かれます。視覚刺激から触覚的情報を得るという場合,その対象物がそもそも命名可能なものであるかどうかが,得られる触覚的情報に影響を与えているのではないか。前にやった研究で,これに関連するデータを得ることができました。でも,ある意味たまたま得られた知見だったりするので,論文にはしてないし,発表する予定もありません。ということで,ここに書くことにしました。

方法ですが,大学生30名程度に対して,様々な自然物なり物品なりのテクスチャ画像32枚を一枚ずつPCで呈示し,呈示された画像についての命名を求めました。さらに,その画像から触感をどの程度鮮明にイメージできるか(触覚イメージ鮮明性)を問いました。さらに,その画像から受ける印象を触覚に関連する擬態語によって印象評定してもらう,というのもありましたが,ここでは述べません。なお,画像はデータクラフトの素材辞典から引用しました。全て輪郭のない表面のみのカラー画像でした。

結果を簡単に。まず,各画像の命名は自由記述データなので,数名で協議し,同一内容を示すと考えられるものをまとめて集計し,命名一致率を算出しました。これを用いて,「視覚刺激から触覚的情報を得るという場合,その対象物がそもそも命名可能なものであるかどうかが,得られる触覚的情報に影響を与えているのではないか」という仮説を検討するために,命名一致率を独立変数,触覚イメージ鮮明性を従属変数とした回帰分析を行いました。ちなみに両変数の相関係数は,r = .88でした。もはや回帰は不要ではないかとも思いますが一応。R二乗値は.77,回帰係数は.88でした。

結果から,対象物の命名率が,その対象物から受ける触覚イメージ鮮明性に大きな影響を与えていたということが読み取れます。つまり,視覚情報から触覚情報を得る場合には,その対象物を容易に命名可能であるということが,得られる情報量を大きなものにしている,と言えるかもしれません。


結論。

おっぱいを見て柔らかそうだと感じるのは,それがおっぱいだと分かるからである。


…。なんつーかもう,


台 無 し 


ですね。以上,適当な研究報告でした。身元バレ?上等上等。
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Different names for the same thing




一つの現象について,我々は無限に名前を用意することができる。故に,それを異なる名前で呼ぶ者同士であっても,我々の対話の可能性は,その「一つの現象」そのものが担保してくれる。それは,暗闇を1人で歩かざるを得ない我々にとっての,大いなる救いだ。


Different names for the same thing.


しかし,我々は無為に様々な名前を生み出してきたのではなく,それぞれがそれぞれに,已むに已まれずそれを生み出してきたのだ。即ち,思いがあり,夢があり,理由があり,根拠があり,必然性があり,目的があり,実益があり,主張があるが故に,我々は我々自身を分かつ事を求め,様々な名前を生み出してきたのだ。それが,対立を生み,無関心を生み,葛藤を生むということを覚悟の上で,我々は我々を分かつことを選択し,その報酬として,対話の可能性を手にしたのだ。


もし仮に,それが我々の手に無かったとしたら。もし仮に,「一つの現象」の下に全てが一つだったとしたら,我々は世界に関する唯一絶対の知を得る代わりに,「多層的な知」という無限の可能性には気付きもしなかっただろう。もし我々が,大いなる絶対知を手に入れたとしても,世界はそれを取るに足らないものとして,世界そのものが包含する多層性を満々と湛え,ただそこにあるだけだったろう。


もし仮に,我々が「一つの現象」の下に一つだったとしたら,そこには既に対話の必然性が存在しない故,我々は一つになる代わりに,対話し,葛藤し,時に手を取り合うべき他者を失っていただろう。そこに葛藤する熱情はなく,愛し合う喜びもない。我々が,我々自身の言葉によって,我々自身を定義し,我々自身を主張し,我々自身を他者に理解せしめんとする事など,全く不要だったのだ。



しかし,我々の手には確かにそれがある。故に,「一つの現象」の元に,全てを一つにしてしまうことなど,できない。全てを一つにしてしまう代わりに,それを無に帰することなど,できようはずがないのだ。

私には私の思いがあり,夢があり,理由があり,根拠があり,必然性があり,目的があり,実益があり,主張がある。あなたにはあなたの思いがあり,夢があり,理由があり,根拠があり,必然性があり,目的があり,実益があり,主張がある。それ故,自ずから私とあなたは対話し,対立し,葛藤し,無視し合う。

そんな我々にとって,互いに手を取り合うという選択をする事に,アプリオリな必然性など微塵もない。我々は我々の言葉で世界を名付け,それぞれがそれぞれの道を行く事をこそ,至上の行動原則とするべきだ。それこそが,この世界がただ満々と湛える多層性を,我々の網膜に到達せしめるものなのだから。



私とあなたが手を取り合えるとしたら,私がそれを持っていて,あなたもそれを持っているからだ。私とあなたが手を取り合うからといって,私はそれを捨てないし,あなたもそれを捨てることはない。私とあなたが手を取り合ったとしても,私とあなたが「一つの現象」の下に一つになることはない。それでも尚,私があなたの「名前」を知ることで,あなたが私の「名前」を知ることで,それぞれの暗夜行路に光が差すのだとしたら,それはもう,「望外の幸せにございます」。



Different names for the same thing.

我々は当事者として,メタメタしい傍観者とは無関係に,それを声高く叫ぶのだ。

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