アブダクションって何? ~This is only a 覚え書き~

極個人的な覚え書きにて,特に読む価値無し,とだけ前置き。


研究するに当たって,なんというか,自分が今何をしようとしていて,それは今までのものとはどう違っていて,どういう意味があるのか,なんてことが気になる。理論武装して自分を守りたかったりもするのだ。

んで,Widwestさんのblogを読んだり,戸田山和久「科学哲学の冒険」なんかを読んだりする中で,自分の研究がアブダクションっぽい気がしていた。

しかし,アブダクションってのが一体全体何なのかは知らなかった。アホ丸出しである。「これってアレなんじゃん?アレについては全く知らないけどさ~(ゲラ」である。

ということで,とりあえず身近なソースに当たってみることにした。

手っ取り早くググる。しかしなんだかよく分からない。

ただ,プラグマティズムとやらの創始者であるらしいPeirceという人が,演繹法やら帰納法やらと並ぶ推論法として,アブダクションとやらを提唱したらしいということは分かった(でもall伝聞)。

これもまた激しく伝聞なわけだが,彼はアブダクションについて,「あるデータから、それを成り立たせている基盤原理を仮説として導くと、他のデータが上手く説明される場合その仮説は真であろうと推定する」といった具合に定義してるそうだ。まぁ分かったようなワカランような,である。事実,アブダクションに関してはその定義やら何やらについて諸説あるらしい。なので引用文献的に思考することにした。助けて!戸田山先生!!


ということで科学哲学の冒険を読んだ。そこには,アブダクションの説明として,


1.Aである。←ある新奇なデータ
2.Hを仮定するとなぜAなのかうまく説明できる←基盤原理の仮説
3.たぶんHである

得意技:一番良さそうな説明へと推論する。(仮説を立てる)



とあった。ふむふむ。半知りから一歩進んで半分かりになれました。

多分,今まで分かっていることではうまいこと説明できない現象について,説明できそうなメカニズムを仮定してやるってことかいな。説明のための思考方法なわけだ。

ん~,まるっきり普通にやられていることではないきぁ。




こんどは自分の研究の話。なんでアブダクションが気になったかというと,自分が「説明する」ための研究をやっているからであった。どうしても「仕組み」とか「メカニズム」に目が行ってしまう癖があるのだ。そんで,どっかで見て半知りになっていたアブダクションとやらに目をつけていたワケだ。

とは言っても,これまでにもアレに関するもっともらしい理論的説明はなされてきている。それこそ,色んな人のアブダクションの肩に,現代のアレは立っているのだ。

しかしながら,常々思っていた問題点として,

アレについてデータ取って何か言おうとする研究の大半が,仮定されている基盤原理そのものの確からしさを正面切って取り上げず,間接的な検討に終始している

って事がある。

アレの教科書っつーか,理論本っつーかの中にある,「アレのナンタラっていう指標がウンタラに関係するのは,カンタラだからである」っていう説明の山。現象学的理解とかなんとか呼ばれることもある説明の山。だけどその説明の確からしさは直接確かめられているわけではない(事が多い)。

良くても,「アレのナンタラっていう指標がウンタラに関係するのは,カンタラだからである。カンタラであるならば,おそらくピーチクパーチクであろう」の下線部分が検討されているくらいだ。ぽくはあるけれど,なんとも間接的で燃えない。

単純に,それでは俺の根本的な疑問は解消されないのだ。だって,アレを使う人はむしろその「基盤原理の仮説」によってアレコレと解釈を進めるわけだから。解釈として出てくる命題が,実証されているものなのかどうかなんて事はお構いなしに,もっともらしい説明の山におんぶにだっこ。言葉上のロジックっつーかレトリックによって,なんとなく確からしさを感じて,納得するって具合で。道具的にそのような仮定に従うことはあるが,「そんなのレトリックじゃねーか!」という思いがこのちんまい脳みそから消えていくことは無かった。理解はできるが,納得いかないのである。

そんなわけで,「基盤原理の仮説」そのものを実証ベースに乗せてみたようと思った。それをやれば,後は演繹的に考えられるのではないか,と。最終的に今やってる研究が十分な結果を生み出すかどうかは,とりあえず横に置いておくとして,こういうやり方でなら,アレの研究をしたいと思った。

これをさっきの例で説明するなら,


1.Aである。←ある新奇なデータ
2.Hを仮定するとなぜAなのかうまく説明できる←基盤原理の仮説
3.じゃあHであるか否かを検討しよう←自分の研究


となる。アブダクションによって設定された基盤原理の仮説を,測定可能な変数からなるモデルに落とし込んで,それ自体を検討するってことか。別に新しいやり方ではねーな。まーそれは良いとして。

もうちっとアレっぽく言うと,現象学的理解云々として提唱されている仮説を,認知心理学的なモデルの中に落とし込んで,それを検討するっていうことになる。ここに至ると,もはやアブダクションなんて言葉は必要ない。むしろ語義をハッキリ理解できてないのだから,進んでこの語は放棄しよう。


このやり方で期待しているのは,現象学的理解云々とは違うことが明らかになる,ということ。今回の研究でこのやり方がうまくいったなら,今度は自前の仮説をこれに乗っけていく事になる。

現象学的理解云々の命題群は,下手すると反証可能性を持たなかったりするから,多分「それじゃ捉えられてない!」とかって言われるかもしれないし,最終的には受け入れられないかもしれない。んなことシラネ,とも言ってられないので,売り込み時には慎重さを要するかもしれない。


まぁこういうやり方をとるっていう背後には,「『基盤原理の仮説』そのものの確からしさを高める直接的なデータが有ると,そうでない場合に比べ,そこから導かれる新たな推論とか予測・予言なんかの精度が高まる」というホントかどうかよく分からない前提が見え隠れするのだけれど。だけども,原理基盤を直接検討する術があるのなら,それに従ってまた新たに原理基盤についての理論体系を作れば良いじゃないか。そのようにして導出された理論体系であれば,一定の説明力とか予測力をもつはずだ。そして,21世紀の心理学は,既にそれを遂行する術を手にしているはず。



アレが様々持つ指標の妥当性をどう検討するか。

それに対する俺のコタエはこういう事になった。

妥当性と有用性・便利さってのは別物だと考えているので,残るターゲットは後者という事になる。まだまだまだまだ先が長い。

この先の長そうな道のりを思う時,フッとあの人の言葉が頭によぎる。


「どうしてロールシャッハの妥当化をしなければならないか」


その答えはまだ出てない。


阿って言うわけじゃないが,結局のところ,この一言が今の研究を支える動機になっているのだ。いくら感謝してもし足りない。






そしてまさに今,自分は熊倉伸宏の言うような「絶対知」的なものを求めているだけなのではないかと思い,背筋が凍った。

そんなもの,あるわけがないのに。

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