「マトリョーシカの最適サイズ」,もしくは「心理学とマトリョーシカ」

一つ前のエントリーで,科学的説明に関するマトリョーシカ・アナロジーの概要を書きました。

なぜと問うマトリョーシカ ~ 科学的説明のマトリョーシカ・アナロジー ~


これを受けて,今日のテーマは,心理学という学問,そして「マトリョーシカの最適サイズ」です。

最適サイズ
◯「"なぜ"の途中」としての科学的説明

例えば何らかの精神疾患に関する科学的説明を行おうというとき,どこまで話を細かくして行っても,"なぜ"という問いには終わりがない。前回のエントリーでは,そういったことを書きました。あらゆる科学的説明は,"なぜ"の前では途中に過ぎない,という風に言い換えられるかもしれません。

ある現象について,これ以上"なぜ"と問えないくらいの,究極的な説明を行う。これはとてもロマンティックな話で,どこか世界征服にも似た野望や野心が感じられる言い方です。もし仮に,あなたがこうした目的のために研究を行なっているとしたら,あなたはマトリョーシカを開け続け,"なぜ"と問い続けることが出来る。行きましょう!クォークの向こう側まで!心から,全力で応援したい!

その観点で言うと,心理学というのは大変中途半端な水準を扱っています。途中も途中,クォークの向こう側とは基本的に無縁だと言っても差し支えありません。なんでそんな中途半端な学術分野が,多くの大学において「~心理学科」と一国一城構えているのでしょう。世界征服を目指す大野心家から見ると,不思議に思われるかもしれませんね。これは,人間が予め持っている特徴に由来するものなのかもしれないという話を,一つの可能な説明として,してみましょう。


◯メンタライズする人間と,「こころマトリョーシカ」

メンタライゼーションmentalizationとは,対象を「こころ化」することです。他者の「こころ」を推測するだけでなく,非生物の「こころ」を推測するということすら,人間には可能だし,しばしば実際にそうしてしまうことがある。しかし,「こころは本当に存在するのか」という問いは,なかなかどうして,答えるのが難しい問題です。例えば,自由意志に関する神経科学的研究なんかを見ていると,それが有るとか無いとか,結局どっちなんだよと匙を投げてしまいそうになる。これは極めてロマンティックだし,「宇宙ヤバイ」的な面白さのある問いですね。

こころなんてないさ こころなんてうそさ 
ねぼけたぼくら みまちがえるのさ
だけどちょっと だけどちょっと こころないのこわいな



ツイッターで,こんなポエムを書きました。これは,「こころなんてない」というアイデアと,「こころ」を実感してしまう人間の性質とを,対比させたものです。個人的にはけっこうイケてるかなと思って書いたんですよ。10favsにも届きませんでしたが,正直,1000favsを夢見てた…。俺,夢見がちだったヨ…。いっそ殺せ!


さて一方で,「こころがあるように感じるのはなぜか」という問いも成立する。「こころ」があるかどうかは分かりませんが,少なくとも,あるようには感じる。人間の持つそうした特徴を,ある人々はメンタライゼーションという言葉で表現しているわけですね。人は生まれながらにして,誰か/何かの行動の"なぜ"を説明する際に,「こころ」の水準から説明/理解しようとする。これをここでは「こころマトリョーシカ」とでも呼んでおきましょう。


◯心理学と「こころマトリョーシカ」

僕は心理学者なので,心理学の話をしましょう。誤解を恐れずに言うと,心理学は「こころの理科」のようなものです。これは僕が尊敬してやまない先生の娘さん(当時小学生!)が,要するにこういうことでしょ的なニュアンスで言い放った言葉だそうです。僕はこれを大変気に入っています。

とはいえ,実際に心理学が題材とするのは,多くの場合,広義の「行動」です。行動の背景となる認知機能や感情を研究してみたり,行動的特徴の背景に人格という構成概念を仮定してみたり,問題を細かくするだけでなく,逆に社会や文化というより大きな水準から説明を加えてみたり,挙げればキリが無いので止めますが,こういったことをしている。素朴な「こころ」ではなく,より洗練された「こころ」によって,行動を理解しようとする,といっても良いかもしれません。

例えば,行動を理解するために「認知機能マトリョーシカ」を取り出す。その説明は,素朴な「こころ」による説明と似ていたり,全然違っていたり,様々です。しかし,行動の説明を「こころ」に求めるという我々の習慣によく似ているため,「へぇ~!」と納得されやすい。一方でより大きな水準である社会や文化による説明も,「最近の若いもんは」が大好きな我々人間にとって,極めて親和的な枠組みなのだろうと思います。

心理学という名前が通俗的に使用されることが多いのは,きっと人間が「こころ化」する生き物だということと無縁ではないのでしょう(「こころ化する社会」という切り口からこれを語ることも当然可能ですが)。科学的な心理学は,通俗的なそれよりもストイックな説明を試みているわけですが,これは我々が予め持っている「こころマトリョーシカ」を,「認知機能マトリョーシカ」とか「感情マトリョーシカ」とかなんとかかんとか様々な専門的切り口によって置き換えているようなものだと言っても,良いかもしれません。


◯心理学の運命と,「中間マトリョーシカ」

例えば,「認知機能マトリョーシカ」の発する"なぜ"に答えるために,「脳マトリョーシカ」とか「内分泌マトリョーシカ」とか「遺伝子マトリョーシカ」を取り出すことになるわけですが,その過程において,心理学は認知科学や神経科学,さらには生理学や遺伝学といった学問に吸収合併されていくことになります。心理学は本当に「途中」の学問なので,科学が進歩して,より細かい話が可能になれば,当然そういう運命を辿っていきますね。

「脳に良いんですよ!」「それは脳がそうさせているんですよ!」と,「脳化」させるのが好きな人,居ますね。「脳に良いんです(ビシィッ!!」とやられると,おおおお!そうなのか!と納得してしまいそうになるから,不思議です。でも,行動と脳は,話の水準として,ちょっと遠い。

例えば「この人に記憶障害があるのは,側頭葉内側部に損傷があるからだ」というのが,記憶障害という現象に対する「脳マトリョーシカ」からの一つの可能な説明です(実際はもうちょっと複雑な問題)。そうなんだ!とすごく楽しくなりますが,じゃあ,"なぜ"側頭葉内側部が損傷されると,記憶障害が生じるのでしょうか。これを説明するためには,記憶という認知機能についての説明が必要になります。

長期記憶というのがありますねん。それは宣言的記憶と手続き記憶に分けられますねん。さらに宣言的記憶はエピソード記憶と意味記憶に分けられますねん。ほいで,側頭葉内側部にある海馬とかその周辺の脳部位が,長期記憶の中でも特に宣言的記憶の記銘保持に関わってますねん…(後略)。

さらに,これらの説明を理解してもらうには,長期記憶とか,宣言的記憶とか,エピソード記憶とかといった術語を,日常的な経験と照合して説明しないといけません。つまり,記憶障害という現象と脳の間には,説明されるべき事柄が存在しているんですね。この場合だと,あいだに「記憶」を入れ込むことで,ようやく話が「こころ」と繋がるわけです。

ここでは,こうしたサイズの離れたモノ同士の繋がりを説明するために開けられるマトリョーシカを「中間マトリョーシカ」とでも呼んでおきましょう。人間が「こころ化」する限り,科学がいくら細かい水準の説明を生み出したとしても,心理学的説明という「中間マトリョーシカ」の役割は亡くならない,じゃなくて,無くならない。主戦場ではなくなるかもしれませんけどネ。


◯で,結局「マトリョーシカの最適サイズ」を決めるものは何か

どこまで"なぜ"と問えば満足できるのか。それを決定できるのは,もう,その人の研究目的よりほかにありません。研究だけでなく,実践の目的ということもあり得る。僕は臨床心理士なわけですが,記憶障害事例に対応する際,個々の神経細胞の動きまでは考えません。むしろ,症状そのものやそれに関わる認知機能,さらには脳部位といったところまでで必要十分です。研究においても,僕が説明したいと思えるメカニズムはその辺りまでです。

しかし,脳が機能を生み出すメカニズムを知りたい!という人にとっては,それじゃ全然満足いかない。「海馬が損傷されると記憶障害になるのは"なぜ"か」といった問いに答えるために,ひとまず「神経細胞マトリョーシカ」を開けてみるかもしれません。それが,その人の目的のために必要不可欠だからです。

明らかにされた神経細胞の動きは,僕の行う研究や実践に対して,ダイレクトには繋がりません。それに,僕がそれをちゃんと理解しようと思っても,学術的な知識が圧倒的に足りません。理解するためには大変なコストがかかります。このようにして,異なるマトリョーシカを取り出す人々との間の距離は,広がっていくわけですね。しかし思い出してください。我々は初めから違う目的を持っているのです。初めから,LCLの海に融け合うことなど,望むはずもありません。

それぞれが,それぞれの目的に従って,必要なサイズのマトリョーシカを取り出せ。それがあなたにとっての最適サイズだ。マトリョーシカ・アナロジーを考えるうちに,僕はこういう考えに至りました。何でもかんでも,細かくすれば良いってもんじゃない。あなたの「こころ」に,それを聞きなさい。そう,自分に語りかけています。結局のところ,問われるのは目的の方なのです。


◯まだまだ続く,この話

さて,今日は心理学という学問について,マトリョーシカ・アナロジーを使って考えてみました。さらに,マトリョーシカの最適サイズを決めるものは,各個人の目的である,というある種当たり前の話をしました。いかがでしたでしょうか。

次こそは,僕が腰を抜かしたリサーチについて,短い紹介をしてみようと思います。

Comment

Comment Form
公開設定

Trackback


→ この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。